尾高惇忠(尾高新五郎)はどんな人?富岡製糸場の場長だった!渋沢栄一との関係も

テレビ番組

大河ドラマによって渋沢栄一に大きな注目が集まっており、同時に渋沢栄一の周辺の人物に興味が出た!という方も少なくないでしょう。

大偉人の渋沢栄一ですが、そんな渋沢栄一に大きな影響を与えた人物の1人であると言われているのが「尾高惇忠(尾高新五郎)」です。

この記事では、そんな尾高惇忠にフォーカスを当てて

  • 尾高惇忠と渋沢栄一の関係は?
  • 尾高惇忠の人生
  • 尾高惇忠と富岡製糸場等への関わり

といったポイントについてご紹介しています。

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尾高惇忠(尾高新五郎)と渋沢栄一の関係とは?恩師だった

尾高惇忠について簡単にご紹介すると、渋沢栄一の恩師的な存在の人物になっています。

渋沢栄一と言えば、文武両道な人物であった事が知られていますよね。

渋沢栄一は7歳(6歳という話も)の頃から、「尾高塾」という私塾に通っており、その尾高塾を開いたのが「尾高惇忠」です。

そのため、渋沢栄一からすると、現代でいうところの教育に力を当てていた「先生」的な側面を持つ人物であったと言えるでしょう。

渋沢栄一が尾高塾に通うために使っていた道は、論語の道と言われているようです。

また、血縁という観点から見た時に尾高惇忠と渋沢栄一は、従兄弟の関係に当たっています。

それに加え、渋沢栄一・尾高惇忠が暴走しかけた時に止めた命の恩人が尾高惇忠の弟だったり、尾高惇忠の妹・千代と渋沢栄一は結婚していたり、何かと先生だけでは片付けられない深い関係でした。

ちなみに、尾高惇忠は「尾高新五郎」という通称を用いており、この記事では基本的に尾高惇忠と表記しますが、尾高新五郎と表記されているケースもあります。

 

 

 

 

尾高惇忠(尾高新五郎)の凄すぎる人生(明治維新まで)

これから、尾高惇忠の人生・どんな人?という点にフォーカスして、様々な点についてご紹介していきます。

尾高惇忠の生い立ち

尾高惇忠は現在の「埼玉県深谷市下手計」に生まれました。


名主のもとに生まれたため、裕福な家庭で育った可能性が高いでしょうね。

尾高惇忠は、かなり小さい頃から賢かったようで、勉強はかなり得意だった模様。

このような背景もあり、のちの私塾に繋がります。

ちなみに思想としては、水戸学にハマっていたようです。

(明治維新の基礎的な思想)

城の乗っ取りを計画した事や戦争に参加も

ここまでだと、現代で言う所の学者?に近い位置にする人物だと思いますよね。

暴力や戦闘・戦みたいな所とは遠い人物だと感じるかもしれません。

しかし、尾高惇忠は実際の所、かなり激しい人物でかなりの武闘派でした。

幕末で、日本で徐々に尊皇攘夷が蔓延していた頃。

1863年に尾高惇忠は渋沢栄一と共に、武器を奪うために高崎城を襲い、その後横浜外人居留地を襲うという計画を立てました。

また、その後には長州と合流する事により、幕府をぶっ壊すなんていう激しいプランも。


ただこれは、自身の弟(尾高長七郎)の懸命なストップにより、計画は中止に。

また、それから4年後(1863年)には戊辰戦争に参加しています。

 

 

 

 

尾高惇忠(尾高新五郎)の明治維新後|富岡製糸場や銀行に関わる

明治維新後に富岡製糸場等に関わっていく尾高惇忠の人生についてご紹介していきます。

富岡製糸場。日本の近代化における代表的な存在の一つであり、教科書等で見たことがあるはず。

よく富岡製糸場の用途や内容を理解していなくても、名前だけは覚えているなんて方も多いはずです。

そんな富岡製糸場の初代場長を「尾高惇忠」が務めました。

これには、新政府の一員として活動していた渋沢栄一が関係しています。

開国後に日本の主要な輸出品の一つになったのが「生糸」でした。

色々と追い風があったので一時期は輸出品の大半が生糸なんていう時代もありましたが、これに伴い、質の悪い生糸が大量に生産・輸出され、日本の生糸に対する評価がかなり落ちてしまったのです。

また、これに加えて様々な要因もあったりして、器械製糸場を作る必要性に迫られていたのです。

日本の器械製糸場の設立に携わった中心メンバーの一人が渋沢栄一でした。

渋沢栄一が尾高惇忠を誘った事で、尾高惇忠が製糸場に関わる事になり、尾高惇忠も予定地の選定等にも関わっています。

後に、富岡に決定し富岡製糸場が設立。初代場長になりました。

ちなみに、尾高惇忠の長女の娘は、富岡製糸場で初めての工女になっています。

(工女とは工場や作業所で働く女性のこと)

富岡製糸場の経営に4年ほど行い、1876年に辞職。

翌年から「第一国立銀行」の盛岡・仙台支店等のトップにもなりました。

ちなみに、この第一国立銀行というのは日本で初めて作られた銀行であり、金融コードは0001です。

現在はみずほ銀行に当たる銀行となっています。

この第一国立銀行も、渋沢栄一が創立した銀行となっており、渋沢栄一と幼少期から関わり、かなりの長期間、サポートしていたことが分かりますね。

渋沢栄一と尾高惇忠の信頼関係はものすごいものがあったのかもしれません。

 

 

 

まとめ

この記事では、渋沢栄一の恩師と言われる人物の1人である尾高惇忠にフォーカスを当てて、その人生についてご紹介させて頂きました。

渋沢栄一と比べると知名度のない人物ですが、激動の時代を生き抜いたという感じのする人生ですね。

現代人には少し激しすぎるようにも感じるくらい・・・

 

 

 

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