徳川斉昭とはどんな人物?生い立ち・安政の大獄から死因まで徹底解説

テレビ番組

大河ドラマの晴天を衝け等への描写により、徳川斉昭についてもっと知りたい!感じた方も少なくないでしょう。

ドラマ内ではかなり激しい人物として描写されているますが、実際はどんな人物だったのでしょうか?

この記事では、そんな徳川斉昭の生い立ちから死因までその生涯にフォーカスして、徳川斉昭とは?という点について徹底解説していきたいと思います。

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徳川斉昭とは?超変わり者!?

徳川斉昭は、徳川治紀の息子(三男)として水戸徳川家に生まれます。

水戸家は親藩という種類の藩で、将軍家とかなり近しい藩となっていました。

特に、親藩の中でも御三家と言われる徳川家系の血筋が守られている藩は、将軍家の血筋が何らかの要因で守られない状態に将軍を送り込む立場にありました。

そして、御三家の中の1つに「徳川水戸家」がありました。

つまり、徳川斉昭は現代で言えば、かなりのエリート家系に生まれたということになります。

しかし、スマートなエリートなんていうのとは、程遠いような話がいくつか残っています。

例えば「晴天を衝け」では、後に草なぎ剛さんが演じる慶喜が、子供のときに刀に囲まれて寝るなんていうシーンがありましたよね。

あれは本当にあった実話のようです。かなり厳しい性格で自身の息子(慶喜)にもその対象が向いていました。

厳しい性格は慶喜の「寝相」にまで及んだようで、寝相を矯正するために、刀を布団の周りにおいて、矯正したようです。

恐ろしすぎる・・・

ただ、同時にかなりのカリスマ性を誇っていたようで、徳川斉昭の死後には、象徴を失った水戸藩内で内紛が発生しました。

物凄く気になる人物ですよね。

徳川斉昭の生い立ち

幼少期から勉学に励んでいたようで、水戸学をかなり学び、優秀だったようです。

後にカリスマ性を発揮し、幕末の中心人物となる徳川斉昭ですが、幼少期から30歳までは表舞台に居ませんでした。

というのも、徳川斉昭が三男であったのが大きな要因となっています。

かなり優秀であったのは間違いありませんが、長男(徳川斉脩)が藩主として既に決定しており、次男・四男は養子に。

徳川斉昭は、長男がもしもの事があったときのための保険として、30歳まで部屋住みで特に目立った動きが無かったのです。

ただ、徳川斉脩が亡くなり、紆余曲折があったものの、徳川斉昭が藩主となります。

次男・四男と飛んで養子に行っており、保険として三男・徳川斉昭が残っていた事を考慮すると、恐らく徳川斉昭が優秀だった事から保険に取っておきたいという意図があったのかもしれませんね。

 

 

 

 

徳川斉昭と改革・やりすぎた一面も

藩主となった徳川斉昭は、改革を進めました。

というのも、安定した時代が続いた江戸時代ですが、

  • 参勤交代等による財政的な圧力(幕府からの)
  • 米の価格が落ちた事による藩の財政悪化、
  • 災害による財政悪化等、各藩の財政状況が落ち込み

このような流れから行われた改革を「藩政改革」とといいます。

徳川斉昭の藩政改革の概要

後に倒幕の中心的な藩となる「薩摩・長州」 が藩政改革によって力をつけ、倒幕に繋がったとも言われています。

徳川斉昭が舵を握っていた水戸藩についても同じように改革を行い、天保の藩政改革の1つに挙げられることが少なくありません。

徳川斉昭が行った改革は「経済」「教育」「軍事」という3つが中心的なものとなっています。

経済的な面においては、専売制による農村の復興、検地等によって農業の最適化を図りました。

また、教育面においては簡単にまとめると、いくつかの学校を建設し、のちの水戸学の発展に繋がるきっかえを作りました。

軍事的な観点から見ると、西洋の技術を積極的に取り込んだ軍事力強化を図り(黒船等の影響も)、大砲等を用いた軍事訓練を積極的に行います。

ちなみに、大砲の製造ではお寺の仏像や鐘を材料とした事もあるようで、かなり罰当たりな事もしています。

徳川斉昭怒られる

徳川斉昭はいわゆる仏教弾圧を行った人物として知られており、シンプルに大仏を大砲の材料にするなんて罰当たりと感じますよね。

ただ、もちろん、これには徳川斉昭なりの考えがありました。

というのも、徳川斉昭は「ゆくゆくは仏なしの国で」という思想を持つ人物で、そのような思想を持った背景として、当時の日本国内の仏教における腐敗がありました。

徳川斉昭は「僧侶は風儀が悪いし、ルールを守らないし、欲にまみれてるし!」と、仏教にはかなり怒っていたんですよね。

(実際に当時仏教全体で腐敗が広がっていたのは事実)

これは後に明治時代にも繋がる先進的な改革ではあったものの、当時としては早すぎたため、幕府から隠居と謹慎が命じられました。(1844年)

(仏教弾圧以外にも、理由はいくつかあった)

 

 

 

 

徳川斉昭と幕末|安政の大獄

次に、徳川斉昭の謹慎明けから安政の大獄までをご紹介していきます。

徳川斉昭・復活する

徳川斉昭が激しすぎたため、謹慎させられていたものの、徳川斉昭のカリスマ性から、徳川斉昭に一目置く人物は少なくありませんでした。

このような背景もあり、幕府から1846年に謹慎解除されました。2年ほど謹慎していたということになりますね。(藩政関与は1849年から)

謹慎が解除され、藩政関与から4年。1853年にあのペリーが来航。

日本中が外国の脅威を感じていた中、徳川斉昭は海防参与として、幕府の中枢に参加する事になりました。

徳川斉昭は保守的な考え方だったため(水戸学等の影響も)、いわゆる攘夷論を主張。

(攘夷論とは実力行使で外国の脅威を跳ね除けろという考え方)

そこから幕府に積極的に船や大砲等の兵器援助を行います。

そこで発生したのが「開国派」と「攘夷派」でした。

開国の中心的な人物だったのが「井伊直弼」で、徳川斉昭と井伊直弼はかなりの対立を見せます。

徳川斉昭・権力闘争に負ける

徳川斉昭と井伊直弼の対立はかなりのものでしたが、それは権力闘争にも及びました。

井伊直弼は血統を重視し「徳川慶福」を継承者として、徳川斉昭は息子の慶喜を推しました。

この一連の闘争では、井伊直弼の勝利となり、アメリカとの条約の調印(井伊直弼がかなり強引に進めた)、将軍は井伊直弼側が推していた慶福となりました。

ただこれでは終わりません。徳川斉昭は、福井・尾張藩主等を連れ、江戸城へ無断登城し、井伊直弼への非難を行いました。

これに対して、井伊直弼を中心とした幕府は謹慎・隠居等の処分を行いました。

それでも、徳川斉昭は止まりません。

次は朝廷に働きかけ、考明天皇から「戊午の密勅」が水戸藩に下りました。

朝廷から「幕政改革」を指示すると水戸藩に伝えたという旨の書類を各藩に回しました。

これに対して、井伊直弼はかなり憤り、積極的な批判を行いました。(朝廷や徳川斉昭に対して)

そこから紆余曲折あったものの、最終的に、徳川斉昭は水戸で蟄居(部屋の中に全て閉め切った状態で謹慎)を、幕府により命じられました。

特に井伊直弼が厳罰処分を求めていたようです。

このような一連の流れを安政の大獄といいます。

 

 

 

 

 

徳川斉昭の死因と最後

かなり激しい人生を送った徳川斉昭ですが、最終的には安政の大獄による謹慎処分が解けないまま、水戸で亡くなりました。

満月を楽しんでいたところ、ぽっくり亡くなったようです。

死因ははっきりと分かっていませんが、狭心症等の症状が見られたという説があったことから、心筋梗塞が死因では?という見方が多いようですね。

(1860年8月)

ただ、直接的な死因では無かったものの、足もかなり弱っていたようなので、謹慎による体への負担がかなりのものだったのでは?とする説もあります。

開国・攘夷論から権力闘争まで激しく対立した井伊直弼も、同年の3月、つまり徳川斉昭が亡くなる5カ月前に亡くなっています。

井伊直弼の死因は暗殺によるもので、井伊直弼が移動中に水戸藩(脱藩済)の方、薩摩藩士等から襲撃を受けたようです。

(桜田門外の変)

ちなみに、このときの仕様された銃というのが、水戸藩で用いられていたもので、脱藩したものが居たとは言え、徳川斉昭が関与していたのでは?とする説もあるようですね。

徳川斉昭が関与していないにせよ、していたにせよ、暗殺に掛かったのは一連の井伊直弼の行動に憤りをためていた徳川斉昭側と似たような思想を持つ人物です。

また、この桜田門外の変を受け、幕府はかなり脅威を抱き、息子の慶喜の謹慎は解除され、のちに将軍になりましたからね。

形はどうであれ、最後の最後で勝利したのは徳川斉昭だと言えるのかもしれません。

 

 

 

 

まとめ

この記事では、徳川斉昭の激しすぎる人生について詳しくご紹介させて頂きました。

欧米に脅威を感じ、日本の存続に奔走した人物1人ですよね。

その方法については賛否両論あったとて、このような激しい人生を歩みながら、日本を守ろうとした姿はかっこいいですね。

 

 

 

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