徳川斉昭の家系図まとめ!水戸黄門との関係や子孫について

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幕末の中心人物として活躍し、徳川慶喜の父親にあたる徳川斉昭。

徳川斉昭という名前からも想像に難くないですが、徳川斉昭の祖先や子孫というのはかなり凄い人たちになっています。

この記事では、そんな徳川斉昭の「家系図」という点に焦点をあてて、徳川斉昭の家系図や子孫・水戸黄門との関係といった点についてご紹介していきたいと思います。

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徳川斉昭の家系図

まず、はじめに徳川斉昭と徳川家の関係を簡単に見られる家系図をご紹介したいと思います。

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ぱっと見ただけでもかなり凄い家系図であることが分かりますね。

徳川斉昭が生まれ育った家は水戸徳川家にあたり、これは親藩の中でも、御三家と言われる徳川家康の血統を絶やさずに、保っていた家に当たります。

徳川家康の血を直接引いている訳ですから、家系図がかなり凄い事も納得。

ちなみに、この家系図をかなり遡っていくと、徳川斉昭や徳川斉昭の息子である徳川慶喜は、織田信長の子孫にもあたります。

というのも、織田信長の長女・徳姫と徳川家康の息子・松平信康の間に出来た子孫が、徳川斉昭となっており、かなり遡らないといけないものの、織田信長の子孫であることは確かです。

時代背景から考えると、不思議でもありませんが、歴史上の有名な人達って血の繋がりがあるケースが少なくないですよね。

 

 

 

 

徳川斉昭と水戸黄門の関係

次に、徳川斉昭と水戸黄門の関係にフォーカスをあてて、ご紹介していきたいと思います。

一般的に水戸黄門というのは、徳川光圀を指しているケースが多いです。

その物語は、実際の歴史と異なる部分が多いとされている(ほとんどがフィクション)なものの、水戸黄門のモデルとなった徳川光圀という人物自体は存在しています。

また、フィクションの物語内で描かれているように、庶民の間での知名度も高かったようですね。

そんな水戸黄門と徳川斉昭の関係にフォーカスを当てると、徳川斉昭の先祖が徳川光圀に当たります。

徳川光圀も徳川斉昭と同じように、藩主を務めた人物で、徳川斉昭が第9代、徳川光圀が第2代の藩主となっています。

徳川家康からの流れを見てみると、

 

常陸太田市

上の方に、水戸黄門のモデルとなった徳川光圀、下の方に徳川斉昭がいることがわかりますね。

西暦の観点から見てみると、徳川斉昭は1800年~1860年、徳川光圀は1628年~1701年に生きていた人物で、約100~150年程度の期間が離れている事がわかると思います。

思想や政治的な手腕には若干の違いは見られるものの、水戸学発展への影響等、徳川光圀・徳川斉昭の間には繋がりがいくつか見られます。

 

 

 

 

徳川斉昭の子孫

次に、徳川斉昭には非常に沢山の子孫が居ますが、その中でも活躍していた・著名な人物をいくつかピックアップしてご紹介していきます。

徳川斉昭の孫で慶喜の息子・徳川慶久

徳川斉昭はたくさんの子供を作りましたが、その中でもダントツの知名度を持っているのが、徳川慶喜だと思います。

そんな徳川慶喜の息子、つまり徳川斉昭から見たときに孫にあたる人物に「徳川慶久」が居ます。

徳川慶喜の7人目の子供(男の子の)として生まれ、現在の東大を卒業します。

貴族議員等になり活躍していましたが、自殺が噂されるほど早くに亡くなりました。(37歳、死因は脳溢血と言われています)

慶喜が非常に優秀であった事から、徳川斉昭が目をかけていたなんていうエピソードもありますが、徳川慶久も同じように非常に優秀だったようです。

柔道や鉄砲、乗馬等々、どんなものをやってもある程度結果を出す要領が良いタイプだったようで、慶喜の再来みたいなことを、周りから言われることも。

同時に顔も端正で、家柄も良いなんていうドラマや映画に出てきそうな人物だったようです。

徳川斉昭の孫の勝精

勝精。こちらも慶喜の息子(10男)です。徳川斉昭からすると、孫に当たる人物ですね。

徳川の姓と違う???なんていう点に疑問を持った方も少なくないと思いますが、これは勝精の結婚相手が関係しています。

勝精の旧姓は徳川で、正真正銘慶喜の息子ですが、勝海舟の家に養子縁組で入ったので、姓が「勝」になったのです。

勝海舟が養子縁組を取る事となった背景として、勝海舟の嫡子に小鹿という人物がいましたが、かなり早くに亡くなった事から、慶喜に勝精との養子縁組をお願いし、成立しました。

現在の安倍前首相と岸防衛大臣も、一時期実兄弟でありながら、姓が異なることで話題になりましたね。

勝精は、1899年に勝家に入り、その後1902年には学習院初等科を卒業、後に慶應大学を卒業しました。

その後、オリエンタル写真工業、浅野セメント等で、幹部を務めました。

ちなみに、このオリエンタル写真工業というのは、菊池という方が創業しましたが、会長(植村澄三郎)を紹介したのは渋沢栄一だったようです。

当時、日本に写真に関わる技術力がなかったことから、国産化を目指したのがオリエンタル写真工業の始まりとなっており、このような公的な部分に関わるところもあった所から、渋沢栄一との関わりも出てきたのかもしれません。

浅野セメントに関しても渋沢栄一との関わりが見られます。

浅野セメント(現在の太平洋セメント)を創業した浅野総一郎は、渋沢栄一から目をかけられ、渋沢栄一の紹介によって、関連事業へのチャンスを掴みました。

(渋沢栄一が創業後もサポートようで、渋沢栄一の自宅に行ったこともあるほど、関係が深い)

渋沢栄一、徳川慶喜・徳川斉昭の子孫というのは、巡り巡って、縁を持っているケースが少なくありません。

徳川厚

徳川厚。こちらも慶喜の息子で、徳川斉昭の孫にあたる人物です。

徳川慶喜の4男として徳川厚は生まれました。

1887年4月に学習院大学に入学しており、1888年に卒業しました。

その後、貴族議員の1人として政治家になっており、1904年~25年まで、20年以上政治家としてのキャリアを維持します。

また、25年には東明火災保険の取締役になりました。

勘がいい方なら感はありますが、こちらも渋沢栄一との関わりがある会社になっており、後に合併したりする流れの中で、渋沢栄一も取締役を務めていました。

 

 

 

まとめ

この記事では、徳川斉昭の家系図や水戸黄門との関係、徳川斉昭の子孫という点にフォーカスして、様々な点をご紹介させて頂きました。

徳川斉昭の息子である慶喜を含めた徳川家関連の人物は、自身やその子孫が渋沢栄一と何らかの形で関わっているケースが少なくありません。

色々と辿ってみると、面白いですね。

 

 

 

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