尾高惇忠と渋沢栄一が高崎城・横浜襲撃計画した生家は公開されてる!生家について

テレビ番組

渋沢栄一に大きな影響を与えた人物の一人で、生涯に渡り関わった尾高惇忠。

晴天を衝けでも、尾高惇忠は重要人物の一人として描かれており、特に尾高惇忠の生家が出てくるシーンも少なくありませんよね。

この記事では、尾高惇忠の生家という点にフォーカスをあてて、

  • 尾高惇忠と生家の有名なエピソード
  • 尾高惇忠の生家のその後
  • 尾高惇忠の生家の現在

という点についてご紹介しています。

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尾高惇忠の生家と高崎城乗っ取り・横浜外人居留地への襲撃計画

大河ドラマの晴天を衝けでは、様々なドラマが尾高惇忠の生家で起きています。

渋沢栄一と尾高惇忠の人生という観点から見たときに、最も有名な尾高惇忠の生家に関するエピソードというのは「高崎城乗っ取り・横浜外人居留地の襲撃」を計画したというものでしょう。

高崎城乗っ取りから横浜襲撃の概要

尾高惇忠が水戸学に傾倒しており、尊皇攘夷に熱い人物であったことは知られており、この事から渋沢栄一も、同じように一時期尊皇攘夷に熱くなっていたというのは、有名な話だと思います。

その機運が高まりに高まった時期に、尾高惇忠と渋沢栄一は、尾高惇忠の生家にて簡単にまとめると

「高崎城を乗っ取り武器を奪って、横浜にいって外国人を斬る」

という計画を立てました。

また、かなり本気でこの計画を実行しようとしていたので、少人数で行うといった旨の計画ではなく、尾高惇忠や渋沢栄一は仲間を勧誘しており、70人程度の同志を集めたと言われています。

計画の実行は1863年の11月23日と予定していたようです。

計画の実行まで1カ月に迫った頃、尾高惇忠の弟にあたる長七郎が京都から生家に帰ってきました。

このこともあり、尾高惇忠や長七郎、渋沢栄一や喜作、中村三平といった重要人物が集まり、尾高惇忠の生家の二階にて計画を話し合います。

尾高長七郎の大反対によって中止

結果的には、この計画というのは長七郎の大反対によって、中止する事になります。

京都にいっていたこと等、様々な情報を把握していた長七郎は、「百姓一揆」とそれほど変わらないものになる。という見解を示し、大反対しました。

長七郎も同じような志をもった人物だと思っていた渋沢栄一は大激怒、尾高惇忠の生家の2階は大激論となったようですね。

このような立場を長七郎を取った背景には色々と要因が挙げられますが、その中の一つにすでに同じような騒動が発生しており、幕府に倒されたという類似例があったのです。

(天誅組の変・尊王攘夷が盛り上がっていた頃に、尊王攘夷派の人物が起こした騒動。最終的には幕府にボコボコにされました)

お互い、刺してでもやる・刺してでも止める(渋沢栄一と長七郎が)といった熱のこもった議論になっていたようですが、最終的に長七郎の筋の通った意見に、みんなが納得したようです。

ちなみに、この大激論が繰り広げられた場所は、尾高惇忠の生家・2階部分で以下のような場所のようです。

深谷市

なんだか、血気盛んな若者という感じのエピソードですね。

 

 

 

 

 

尾高惇忠の生家はどんな運命を辿った?

次に、尾高惇忠の生家自体にフォーカスをあてて、いつ建てられて、現在までどう管理されているのかといった点についてご紹介していきます。

尾高惇忠の生家は、曽祖父にあたる礒五郎によって建てられたものになっており、江戸時代後期あたりに建てられたといわれています。

江戸時代後期というと、1750年から1850年あたりでしょうか?曽祖父が建てたものという点を考慮すると、1700年代に作られた可能性が高そう。

ちなみに倉庫は、1888年以降に作られた可能性が高いものが使用されて作られたようなので、ちょこちょことメンテンスというか、手を加えられていたようですね。

尾高惇忠が戸主になったあとは、娘(コト)が青木定四郎と結婚し、家を継ぎました。

その後、子供の浩一が家を継ぎ・・・となっているようですね。

尾高惇忠の生家は、2010年に深谷市指定文化財に指定されており、重要な建造物として今でも管理されています。

 

 

 

 

2階は見れない!尾高惇忠の公開されている生家の詳細とアクセスや時間等について

先程から触れているように、上記のような好奇心を刺激されるようなエピソードが存在している尾高惇忠の生家は現在でも公開されています。

これから、尾高惇忠の生家の間取りや、生家へのアクセス・公開時間等について詳しくご紹介していきます。

尾高惇忠の生家の構造・間取り

まずはじめに、生家の間取りについてご紹介していきます。

深谷市

尾高惇忠の生家の間取り図は上記のようになっており、2階の左奥の部屋が襲撃の話が行われた場所と言われているようですね。

ファンとしては、2階の部分が見たいところですが、その部屋は非公開となっているようで、チェックすることは難しいようです。

尾高惇忠の公開されている生家へのアクセスと時間

次に、尾高惇忠の生家のアクセスと、時間についてご紹介していきます。

Google Mapでは以下のようになっており、

この地図からもわかりますが、アクセスしにくい場所にあります。(車がないと)

駐車場は整備されているようで、車で行くと便利でしょう。

JR深谷駅からタクシーで向かうと15分程度なので、車がないという方は、タクシーでのアクセスがベストかもしれません。

公開されている時間は、AM9時からPM5時までとなっています。

また、解説が行われることもあるようで、お昼や16時を除くと、毎時間10分と40分に解説を聞くことも可能なようです。

詳しいところまで聞きたい!という方は、解説に合わせてアクセスするのもありかも。

また、現在世界的に蔓延しているアレの影響か、入場制限が行われており、30分30人までという制限がかけられているようですね。

混雑している場合は少し待たないといけない可能性もあるようなので、できるだけ余裕を持って訪問するほうが良いでしょう。

また、見学に際しては検温があるようで、体調が優れない場合は訪問を控えてほしいとのこと。

深谷市が発表している見学にあたっての注意点が解説されている資料もあるようなので、訪れたいという方は、是非チェックしてみてください。

 

 

 

 

まとめ

この記事では、尾高惇忠の生家というテーマで、生家のエピソードから実際のアクセス方法までを詳しくご紹介させて頂きました。

今でもこういう建造物が残っているのって、嬉しいことですね。

 

 

 

 

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