井伊直弼と徳川斉昭は相性が最悪だった?安政の大獄と両者の関係

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井伊直弼と徳川斉昭は、安政の大獄をはじめとした権力闘争にフォーカスがあたることが少なくありませんよね。

かなりの対立を見せた両者ですが、実は井伊直弼と徳川斉昭はそもそもかなり相性が悪かったのでは?という点について、この記事では触れています。

(主に仏教に対する扱い方等から)

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安政の大獄は有名な話なだが・・・

井伊直弼と徳川斉昭と言えば、安政の大獄。

時期将軍候補として、徳川斉昭を含めた一橋派(慶喜推しの人たち)、井伊直弼を含めた南紀派(慶福推し)が対立していました。

また、徳川斉昭と井伊直弼には当時外国勢力に対する対応にも認識に大きな違いがあり、徳川斉昭は尊皇攘夷・鎖国、一方で井伊直弼は開国派でした。

(井伊直弼は鎖国派であり、開国は一時的な措置と考えられているケースもある)

上記のような権力闘争と外交手腕の対立によって、発生したのが安政の大獄です。

かなり強引に井伊直弼が開国を推し進めた(条約への調印)をきっかけに、徳川斉昭を中心とする一橋派は大激怒。

それに対して、井伊直弼サイドは、一橋派はもちろん、尊王攘夷派の中心的な人物に対して隠居等を命じました。

中心的な人物となっていた徳川斉昭は、安政の大獄による蟄居処分を受けたまま、亡くなったことは有名ですね。

また、同じく井伊直弼は、安政の大獄にフラストレーションをためていた(水戸藩を中心とした勢力)人たちによって、襲撃され亡くなりました。

(桜田門外の変)

奇しくも両者は同じ年に亡くなっています。

映画ような闘争を広げていた両者の上記のようなエピソードは非常に有名ですね。

 

 

 

 

 

井伊直弼と徳川斉昭の仏教に対する考え方

両者には、仏教に対する認識でかなり大きな違いがありました。

これが直接、井伊直弼と徳川斉昭の対立につながった訳ではありませんが、かなり相性が悪かったんじゃない?という観点から、両者の仏教に対する接し方についてご紹介します。

水戸黄門も仏教嫌い?水戸と仏教

徳川斉昭といえば、仏教嫌いで有名ですよね。

仏教弾圧を行った人物として知られていますが、この傾向というのは徳川斉昭がはじめたものではなく、水戸藩では過去にも同じような政策が見られました。

その指揮を取っていたのが、徳川光圀です。

徳川光圀と言えば、水戸黄門のモデルになった人物として知られており、現代日本人の知名度がかなり高い人物ですよね。

徳川光圀は、寺院の統廃合を進めた人物であり、その際の手法は後世の類似した政策(徳川斉昭や明治政府の)にも活かされたと言われています。

(なんでもかんでも潰した訳ではなく、対象となる宗教施設の条件はあった)

そこから100年以上のときが経ち、徳川斉昭も同じように寺院の整理を進めました。

また、徳川斉昭の仏教への政策は、徳川光圀よりも厳しいものがあり、徳川斉昭は自身で「最終的には仏教を無くしたい」という考えをもつ人物でした。

徳川斉昭の政策によって、半数を超える村は「寺なし」という状況になったのです。

当時、人々の生活に深く関わっていた仏教ですから、今では想像できないですが、かなり珍しい状態となっています。

当時の仏教の状況について

ただ、徳川斉昭が理由もなく、仏教嫌いだった訳ではありません。

もちろん、根底には思想があったと思われますが、仏教では現代で言う汚職が蔓延していました。

このような状況になっていた背景として、寺請制度が大きく関係していると言われています。

寺請制度について簡単にご紹介すると、

「お寺から寺請証文を貰って、キリシタンじゃないと証明する事を義務付ける制度」

となります。

このような事を導入していた背景は、キリスト教やその他の宗教を、当時の幕府が嫌っていた事が挙げられます。

(豊臣秀吉から続く日本の宗教政策)

そのため、日本に根付いていた仏教が、正しい宗教として認識されており、キリスト教やその他の宗教からの防衛策として、上記のような制度が取られていた訳です。

また、現在でいう戸籍に似たものも(住民の管理)寺院が行っていたため、現代人にとっては宗教施設というよりも、仏教・寺院は役所のような役割も持っていました。

寺請制度では寺請証文を持っておく事が義務付けられている訳ですが、寺院側には何らかの理由で不適切と考えられる場合に「寺請証文はあげません」と拒否する権利を持っていたのです。

想像に難くないですが、寺請証文を持っていない人物というのは、まともに生活をしていく事が出来ません。

しかし、このような権限を持っていた影響で、仏教業界では汚職がはびこっており、寺がかなり潤っていたようです。

この事を、徳川斉昭は非常に嫌っており、上記のような政策を取ったと見られています。

一方で井伊直弼は仏教に傾倒

徳川斉昭は仏教を嫌っていましたが、井伊直弼は仏教に精通していました。

井伊直弼は、10代から30前半になるまで表舞台には出てこず(就けるようなポストがなかったため)、その間にたくさんの教養を身につけていました。

そして、その一つが禅といった仏教であったと言われており、井伊直弼は仏教に傾倒していた訳です。

このような仏教に対する熱い思いというのは、のちの政治活動にも活かされることになります。

 

 

 

 

井伊直弼と徳川斉昭の肉

井伊直弼と徳川斉昭の肉のエピソードについてご紹介していきます。

表舞台に出てこなかった井伊直弼ですが、藩主となり、たくさんの改革を行いました。

井伊直弼の政策の一つが「牛肉の禁止」です。

井伊直弼は彦根藩の藩主となりましたが、彦根は防具制作のために、牛の消費を許されている土地となっていましたが、仏教に傾倒している井伊直弼はこれを禁止。

(牛の消費を許されているのは彦根だけだった)

彦根の牛肉は、毎年幕府や大名に贈り物として流通しており、その牛肉を楽しんでいた一人が徳川斉昭でした。

井伊直弼の政策によって、牛肉が食べられなくなった徳川斉昭は、何度も井伊直弼に「特別扱いでもいいから、牛肉がほしい」という旨を伝えていたようです。

ただ、それは叶わず、好物の一つだった牛肉を食べる事が出来なくなりました。

もしも、徳川斉昭が仏教へ理解のある人物だったら、このような結果にはなっていなかったのかもしれませんね。

 

 

 

 

 

まとめ

この記事では、井伊直弼と徳川斉昭の関係について、仏教という観点から、肉のエピソードについてご紹介させて頂きました。

徳川斉昭が仏教好きだったら・・・井伊直弼が水戸学に理解があれば・・・歴史は違っていたのかもしれません。

 

 

 

 

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