野崎幸助の学歴(高校・大学)と経歴をwikiよりも詳しく!若い頃の生い立ちも

事件

紀州のドンファンこと、野崎幸助さん。

野崎幸助さんの元妻の逮捕を受け、非常に話題になっていますね。

野崎幸助さんについて、派手な生活の印象等はあるものの、実際の経歴等についてはあまり知らないという方も少なくないでしょう。

この記事では、野崎幸助さん「学歴・経歴」フォーカスを当てて

  • 野崎幸助の生い立ちと高校まで
  • 野崎幸助の最終的な学歴
  • 野崎幸助の若い頃
  • 野崎幸助の経歴

といった点についてご紹介していきます。

野崎幸助の生い立ちから学歴(高校・大学)をwikiっぽく

後に資産家として有名になる野崎幸助さん。

しかし、その生い立ちはかなり意外なものでした。

気になる野崎幸助さんの生い立ちについて、詳しく触れていきます。

生い立ちは貧乏

野崎幸助さんは、一代で財を成したことは有名です。

このようなストーリーで庶民が想像するのは、貧乏から成り上がって、成金になる・・・

といったものですが、野崎幸助さんもそのタイプに当てはまります。

野崎幸助さんは自身の資産を、亡くなった後に田辺市に寄付意向を遺言書に残してた事が後に話題になりますが、その田辺市出身となっています。


ちなみに、この野崎幸助さんの「田辺市に全財産寄付遺言」を巡っては、まず「野崎幸助さんの親族」が無効を主張し裁判。

市と分割するはずだった(協議に入る予定だった)元妻は逮捕となり、かなり雲行きが怪しくなっています。

話を生い立ちに戻すと、野崎幸助さんは田辺市のどちらかと言うと貧乏な家庭で育った模様。

野崎幸助さんは1941年の生まれなので、この当時の地方の状況を考えると、どのような環境だったのか?想像しやすいですね。

学歴は高校も大学も卒業していない「中卒」

貧乏な家庭でも勉学に励み、成り上がっていった・・・

といった感じかと思いきや、野崎幸助さんの学歴は「中学卒業」が最終的なものとなっています。

つまり、高校や大学も卒業していません。

現代ではそれほど裕福ではないケースでも高校に進学するのは当たり前となっていますが(直近の高校進学率は90%以上)。

当時の時代背景・家庭の事情的に、中学卒業した後は「すぐに働く」というのが、野崎幸助さんの周辺でも当たり前だったようです。

このような環境から成り上がっていくって、漫画みたいですね。

ちなみに、野崎幸助さんの生い立ちについて知りたい方は、野崎幸助さんが書いたいくつかの書籍がおすすめです。

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この書籍は、野崎幸助さんが2016年に巻き込まれた事件に際して、「好き勝手に色々書かれるなら、自分で書く!」という意志のもの発売したもののようです。

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野崎幸助の若い頃

次に、野崎幸助さんの中学卒業後の若い頃から、商売に目覚めるきっかけとなった「ある商品の訪問販売」についてご紹介していきます。

野崎幸助さんは田辺市の上記したような家庭で育ち、一番はじめに働き始めたのは「鉄屑拾い」だったようです。

ここから資産家まで成り上がるのが凄すぎる・・・・

10代は鉄屑拾いを仕事をしていたようですが、そのような生活を送っている中、ある日「避妊具」が落ちているのを目撃した模様。

ここから、「避妊具の訪問販売」を行う事を決心します。

商売の才能があったのか、営業はかなり得意だった模様。

20代前半に避妊具の訪問販売をはじめて、一般的な会社員の3倍以上の金額を稼いでいたようです。

訪問販売する商品が避妊具という事もあり、客の反応としてはかなり強めに拒絶される事もあった模様。

しかし、一定の需要はあったようで、かなりの金額を稼ぎ出したようです。

野崎幸助さんが20代の頃は1960年代。

当時の日本と避妊具の状況は1950年にちょうど、優生保護法等の存在もあり、避妊具の認知・需要が高まっていた頃です。

日本の成長とともに公衆衛生への意識も高まっていた時期と重なるのです。

野崎幸助さんの営業力はもちろんですが、時代の流れを汲み取る商才が溢れていると言えます。

 

 

 

 

野崎幸助の経歴

次に、野崎幸助さんが資産家になるまでの経歴と、その後の流れについてご紹介していきます。

ここから、紀州のドン・ファンと言われるまでになります。

財を成すきっかけになった貸金業

訪問販売で会社員の3倍以上稼いでいた訳ですから、20代の頃に既に何かの商売を始めることには困らないほどの金銭は持っていたようです。

そして、その資金は「運用」に回され、貸金業や投資に回っていきます。

直近では、野崎幸助さんの会社と見られる会社が求人を過去に行っていた事が確認されていますが、田辺市にあります。

従業員数は7名とそれほど大きな規模では無かったですが、当時は東京で貸金業を行う等、貸金業でそこそこの規模感で動いていたようです。

(知名度の高い消費者金融等の全国区と言えるほどではありませんが)

ちなみに、野崎幸助さんの貸金業については、様々な噂があり、その中でも「少しグレーじゃない?」と感じるものもあります。(取り立て等に関して)

真意は不明なものの、当時は貸金業に関する法整備がまだ整ってなかったですから、今ではグレーと感じるものも、平然と行われていたのでしょう。

いろんな噂はあるものの、元は訪問販売で得た資金はどんどん膨れ上がり、後に波乱を巻き起こす財産を形成していく事になります。

ドン・ファンの伝説はここから

このあたりから、野崎幸助さんの「紀州のドンファン」伝説は築かれたようです。

というのも、野崎幸助さんは貸金業や投資で得た資金を、女性との交際に使い、後に30億円を女性に貢いだと言われる存在になります。

野崎幸助さんの地元が和歌山にあるという事もあり、大阪でも事業を展開していたようで、その事から大阪の北新地等に行く事が多かったようです。

北新地とは、大阪の花街・歓楽街として有名な場所で、

大阪の中でも、大人が遊ぶお店が揃っている地域です。

関西系の芸能人がこのあたりで遊んでいた際の武勇伝等が語られる事も少なくありません。

ちなみに、野崎幸助さんの女性へのアプローチ方法は大胆で、どうしても好みの女性が居ると、一回のデートで30万円~40万円ほどの金額を使っていたようです。

不動産業・酒類販売等に手広く事業を展開

野崎幸助さんが財を成したのは貸金業ですが、そこから不動産業・酒類販売等にも事業を展開していきます。

特に不動産に関しては、貸金業の際に取り押さえた物件を保有していた事もあり、有名ですね。

また、現金で数億円、美術品関連にもかなりの金額をつかっていたようで、宝石・美術関連でも数億円を超える資産を持っていたようです。

野崎幸助さんの最後は衝撃的なものでしたが、このような激しすぎる人生を送っている方なら、それほど不思議にも思えませんね。

 

 

 

 

まとめ

この記事では、野崎幸助さんの学歴・経歴・生い立ちといった点について焦点を当てて、様々な点をご紹介しました。

ちなみに最後の最後まで元気だった野崎幸助さんは、特に健康に使うことはなく、毎日お酒をかなりの量のみ(ビール大瓶2瓶程度)、70歳以上元気に過ごしたようです。

 

 

 

 

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